ミニ郷土史 写真で見る仁保の半世紀3(2013年10月1日)
黄金山から向洋大原・海田方面を望む。
大原昭和32大原昭和40

大原平成01向洋大原平成10年代
                                  (左上)昭和32年(1957年)ころ                        (右 上)昭和40年(1965年)ころ
                                  (左下)平成元年(1989年)ころ               (右下)平成15年(2003年)ころ     
【説  明】
左上の写真の左手に見える小高い山の麓が向洋大原、その上に見えるのが海田湾である。恐らく戦前の風景と同じであった
と考えられる。まだ、洋光台団地の開発や向洋沖町(東部浄化センター用地)、海田港の埋め立てはまだ行われいない。
右上の写真は、左上写真のおおよそ10年後である。向洋洋光台は開発中であり、向洋沖町と海田湾の埋め立てはほぼ概成している。
写真右端には、東洋大橋(現マツダ(当時東洋工業)の本社と仁保沖町工場を結ぶ工場内の橋で昭和40年(1965年)開通)も見える。
このころから、東洋工業は大企業へと成長していく。港湾用地や産業用地の開発のため、仁保も向洋も海田も急速に変わっていく。
代わりに広島湾から海浜がなくなり、広島の海苔製造業は衰退していった。江戸時代から広島湾で行ってきた海苔の栽培・採取が
でできなくなったため、板海苔を域外から移入して、海苔の味付け製造に特化することで、広島海苔は、現在でも生き残っている。
左下は、右上から20年後。向洋の陽光台団地は、住宅の入居がほぼ終わり、手前の黄金山の麓は、仁保南団地が完成直前となっている。
右下は、左下から約15年後。手前の仁保南団地にほぼ住宅が立地し、このころ、都市高速2号線(平成21年(2009年)4月開通)
の仁保ランプの建設に伴う立ち退きにより、仁保4丁目の一部(旧字皿山)の古い町並みは、消えていった。この地区には、
旧村役場や旧住吉神社があったが、旧道がなくなり、区画も整理されたため、現在ではそれらの場所を特定することが難しくなった。

(写真は大下隆雄。説明文は吉岡出雲。)